2005年08月07日

弁証法とは(1)

アクセス解析のキーワードを見ていると、定期的に「弁証法」とか「弁証法とは」で検索されている方がいらっしゃるのですが、このブログでは、弁証法に関しては今のところおそらく最低限しか取り上げていませんし(『弁証法をどう応用するか』のあとがきなど)、今後もあまり積極的に取り上げるつもりはありません。その理由は、基本的には以前書いたエントリーのとおりです。それにいまは集中して勉強する暇も気力もありませんし。

実用レベルで弁証法の基本を知りたければ、まずは『弁証法はどういう科学か』を、といったところなのですが、それもなんですので、参考までに三浦つとむの師匠の一人・エンゲルスの著作から有名な箇所を引いておくことにします。

『反デューリング論』(国民文庫版)

ベルリン大学の私講師だったデューリングの著作に対する反駁書。マルクス主義の論理が体系的に展開された最初の著作でもあります。弁証法にかんしては「三つの版の序文」の二(1885)、「序説 1 総論」、「第一篇 哲学」の「12 弁証法、量と質」「13 弁証法、否定の否定」、また本来は序文として掲載されるはずが長文になりすぎて採用を見送られた「『反デューリング論』への旧序文」などで展開されていますが、それだけを読めばいいというわけではもちろんないでしょう。当のエンゲルス自身も、「読者は、私の提出した諸見解のなかに内的な連関があることを、どうか見おとさないでいただきたい」(「三つの版の序文」の一、1878)と注意を促しています。もっとも文庫でも2冊組の大著ですし、当時の読者(もともとは新聞連載)にエンゲルスの意図が伝わったかどうかは微妙なようですが・・・。以下は「第一篇 哲学」で、唯物弁証法の三法則(本書では「二つ」ですが・・・)の一つ「否定の否定」を論じた箇所からの抜書きです。

それでは、否定の否定とはなにか? それは、自然、歴史および思考のきわめて一般的な、またまさにそれゆえにきわめて広く作用している重要な発展法則である。それは、以上に見てきたように、動植物界でも、地質学でも、数学でも、歴史でも、哲学でも効力をもっている法則であって、この法則には、デューリング氏自身も、どんなに逆らおうがもがこうが、知らず知らず彼なりの流儀で従わなければならないのである。私がなにか特殊な発展過程、たとえば、大麦粒が発芽してから実をむすんだ植物が死滅するまでにこの大麦粒が経過する発展過程について、これは否定の否定である、と言ったところで、その発展過程についてなにも言ったことにはならないのは、自明のことである。(中略)私がこれらすべての過程について、それらは否定の否定である、と言うとき、私はそれらをすべてまとめてこの一つの運動法則に包括しているのであって、まさにそれゆえに、おのおのの特殊過程の特殊性を考慮のそとにおいているのである。だが、弁証法とは、自然、人間社会および思考の一般的な運動=発展法則にかんする科学というもの以上のものではないのである。
 (「第一篇 13 弁証法、否定の否定」、P218より、強調はliger)

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2005年03月28日

無題(『日本の新興宗教』より)

いままで何度か「天皇制宗教」ということばをこのブログで使ってきたが、あまり一般的でないと思われるこのことばは、実は私が考えたものではなく、『日本の新興宗教』(高木宏夫・岩波新書、1959)のなかで用いられているものである。天皇制と新興宗教とがどう結びつくのか奇妙に思われるかもしれないが、これは同書では、天皇制を、明治維新以降に成立した「権力をもった新興宗教」と定義しているためである。

「新興宗教・天皇教」は、敗戦によってその「神通力」を一気に失うかたちとなったが、政府や自民党は憲法や教育基本法の改悪に乗じて、またぞろそれを持ち出そうとしている。人類が火星にまで行こうかというこの時代に「オカルト」頼りとは時代錯誤ぶりも甚だしいが、しかしながらどうもその「天皇を中心とした神の国」も、「ブッシュを中心とした神の国」には頭が上がらないようである。

絶対主義天皇制の確立
日本人の宗教教育は、たんに大衆の信仰に根ざすだけでなく、国家による教育の中で大きく規定づけられてきた。それは、明治維新(一八六八年)が上からの改革であり、改革にあたって天皇がかつぎだされて「錦の御旗」となり、ここから絶対主義が成立したという歴史的事実にもとづいている。

明治維新によって新しく生れた国家権力すなわち天皇制の特徴は、絶対主義という点にある。絶対主義は封建制から資本制に移行する過渡期にあらわれる。一方では寄生的土地所有の上にたつ貴族・地主階級に足をかけながら、他方では大商人・高利貸などの新興ブルジョア階級と手をにぎって、資本主義を発展させる任務を遂行する権力である。政府の権力が無制限であるという意味で、これは絶対主義とよばれている。したがって、天皇制自体は強固な階級的地盤をもっていないために、その国家意思を神聖化する宗教的イデオロギーによって、つよく支えられることが必要である。これがなければ自己の地位を保つことはできない。だからこそ、特有のイデオロギーすなわち天皇制宗教を確立し、それを教育によって大衆に徹底的に浸透させ、それと抵触するような性格のイデオロギーを強力に排除しなければならなかった。天皇制確立後、立憲君主制という粉飾はしたが、絶対主義の本質は敗戦まで依然として変わらなかった。

(「U 明治以後の大衆思想運動 1 戦前における大衆思想教育」より)

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2005年03月17日

メモ:弁証法(『西洋科学史T』より)

最近『西洋科学史T』(シュテーリヒ著/菅井準一・長野敬・佐藤満彦訳、現代教養文庫)を読んでいるのですが、カバーの裏側に弁証法についての記載があったので、参考までに抜書き。

弁証法という用語は、ギリシア語のdialektikeに起源を持ち、対話という意味である。古来、ギリシアの哲人たちのめざしたものは、物事に絶対的基準を求めることなく、対話によって永遠に把握不可能な真理へと自らを誘うことにあった。だから、真理とは永劫に解きえないアキレウスの亀≠ナあり、事物は相対的な真理しか持ちえない。今存在していることも相対的でしかありえない。哲人たちは、陽光ふりそそぐリュケイオンの学園で、あるいはパルテノンの神殿で、把握不可能なイデアの王国へ至る道をさぐっていたのである。(「カヴァー説明」より)


ギリシャ時代の弁証法は厳密には「弁証術」というべきものですが、弁証法の起源については『弁証法はどういう科学か』でも少し触れられているので、ご参照いただければ幸いです。
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2005年02月27日

「哲学に用いられた数学的形式」

ハイネ『ドイツ古典哲学の本質』(1834)より、同名タイトルの箇所を抜書き。

「さて哲学者はなにゆえに、これほどまでに数学的形式をひいきにするんだろうか? これはピタゴラスからはじまったことである。ピタゴラスは客観界の原理を数であらわした。これは天才的な思想であった。一定の事物は数であらわされると、その事物の有限の感覚的な要素はすっかり除去されてしまう。しかも、その数は一定の事物と、その事物の他の一定の事物との関係をはっきりとあらわしている。その他の一定の事物も、数であらわされると、やはり有限の感覚的な要素をとりのけられたものになる。この点で数は観念に似ている。観念もまた有限の感覚的な要素をとりのけられたものとして、他の観念と関係している。だから、人間の精神と外界の自然とにおいてあらわれる観念は、数によってきわめて適切にあらわされるのである。けれども数はあくまでも観念をあらわす記号であって、観念そのものではない。ピタゴラス先生は、この数と観念との相違をよくわきまえていた。ところが弟子たちはこの相違を忘れてしまって、孫弟子たちに象形文字としての数、記号としての数だけをつたえた。その数のあらわす意味は、ついにはだれにも分からなくなって、ただ学者ぶって口まねでしゃべるだけのことになった。数以外の数学的形式も、これとまったくおなじだ。永久にうごいている観念的なものを固定することはできない。観念は数によっても、また線分、三角形、四角形、円などによっても固定されない。思想をかぞえたり、はかったりすることはできないのだ。」(岩波文庫版・P171-172)


ポオも数学的な推論には批判的でしたが、ハイネも数学を哲学に応用することには批判的だったようです。ハイネのこの著作をポオが知っていたかどうか私は知らないのですが、どちらも詩人だったというのは、彼らの頭の鋭さと何か関係があるのでしょうか。
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2005年02月25日

無題(『西洋科学史T』より)

メモ程度にひとつ抜書き。

「・・・考える人にとって科学史に心を傾けるのは必要で意義あることなのだ。なぜなら彼は孤立して生きているのではなく、世界、環境、彼の$「界の中で、この世界や他人たちと幾重にもからみ合い、解きがたいきずなをもちながら生きている――しかも、科学はこの世界を形成していく力の一つだからである。」

 「この世界は現状のまま天界から降って湧いたのではなくて、私たちの扱うどの存在も歴史的に形成されたのだから、やはり史的発展の基礎に立たねばこれを理解できないし、この理解に立ってこそ意味のある行動をとってこれに影響を与えることができる。政治的な計画や行動に際して常に、遠く、また近い過去に国民の運命がどんなふうだったかが否応なくぴんと来ないような人は、今日、政治家の名に値するだろうか? 過去と同時に未来に予期され希望されうることをも現代に生かす≠アとこそ政治に限らず一般に適切な対処というものの本当のあり方なのである。」
(シュテーリヒ『西洋科学史T』(現代教養文庫、P8-7))

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2005年02月19日

適用の限界

菜園チスト氏の投稿でも触れられていることだが、以前氏の投稿に対して<公式や法則の適用には限界がある>との内容のコメントを寄せたことがある。以下の文章は、そのときのコメントの内容を多少敷衍した形で展開したものである。
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2005年02月08日

ノート:主に認識論について(補筆)

昨日唐突に三浦つとむの著作からの抜書きを投稿しましたが、これには理由があります。

それというのも、「タダモノたちのつぶやき」のSNG氏が、<「無限」であるはずの世界に関する普遍的な認識(法則)を、「有限」な人間の認識をもってどうして得られるのか、あるいはどのようにしてそれを「保証」するのか、それは科学者の「僭越」ではないのか>ということを、表現こそ違えども、1月頃から何度かくりかえし語っていらっしゃることによります。昨日の抜書きは、彼の問題を考察するための「材料」の意味合いも含んでいます。
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2005年02月07日

ノート:主に認識論について

―『認識と言語の理論T』(勁草書房)からの抜粋―

「認識の基礎となっているのは現実の世界であるが、この現実の世界を反映し模写するという認識の本質的なありかたがすでに一つの非敵対的矛盾を形成している。現実の世界は時間的にも空間的にもまたその多様性においても無限であるにもかかわらず、その現実の世界の一部分であるわれわれの頭脳への現実の世界の反映は、われわれの歴史的なありかたと個人の肉体的・精神的なありかたから規定されて、時間的にも空間的にもまたその多様性においても有限でしかありえない、という矛盾である。この矛盾は人間の認識にとって本質的なものであって、人類が消滅しないかぎり消滅しないのである。」
(「第一章 認識論と矛盾論:二 認識における矛盾」、P14より)

「現実の世界が無限であるのに対して、われわれ個人の認識に限界があるとしても、われわれは他の人間の認識を受けついでそれを補う方法を現に実践している。これは実際上限りなく継続していく人間の世代の認識を系列化することであり、個人が他の人間と結びついてつぎからつぎへと認識を受けついでいく認識それ自体の交通・運動形態を創造することである。この無限の連続が、現実の世界の無限のありかたと正しく照応し調和するように定立させられるのであるから、これは非敵対的矛盾を実現しかつ解決することなのである。この本質的な矛盾はさらに個人の認識の構造として具体化されていく。(以下略)」(同上、P16)

 

―『新しいものの見方考え方』(青春新書)からの抜粋―

「人間の認識はどこまでいっても不完全だということは、終りにならずにまだ先がのこっているという、ただそれだけのことであって、ここから先は認識不可能だという壁が現実のなかに存在しているわけではない。・・・現実について正しい認識を持たなければならないといっても、それは何もかものこらず知らなければならないということではなくて、何をどこまで認識するかは生活上の必要によってきまってくる。」

「このように、私たちの日常生活の認識のしかたを考えてみると、・・・決定的な役割を持つ部分や側面や関係をえらんで、重点的に認識が行われていることがわかる。私たちの生活をささえているものは多種多様であるけれども、それらのなかの決定的な役割を持つものを正しく認識しさえすれば、それ以外はそれほど問題にしなくても足りるのである。同じことが、未来について予想する場合にも、他人の直接の経験や予想を自分のものにする場合にもいえるのであって、未来のことを何から何まで正しく予想することは不可能であるし、またその必要もない。予想にあたって決定的な役割を持つものが何であるかは、現実の正しい研究から出てくるから、この現実の正しい研究をふまえて未来についてのある程度までの正しい予想を立てることは可能であるし、またそれで十分なのである。」

未来のことは何から何まで正しく予想できないからといって、ここから何一つわかるはずがないとか、人生は不可解だというような、行きすぎた結論を出してはならない。」
(以上、「3 人間の認識は不完全だということ」より)

[2/8修正 各文中の強調は原文、下線は原文では傍点。]
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2005年02月04日

覚書:『芸術とはどういうものか』より

「・・・しかしながら、感情で論理を否定することは許されない。・・・自分の願望をそのまま客観的な現実として理論化することは、理論にたずさわる者としてもっとも心をくばらなければならない非科学的なふみはずしである。」(『芸術とはどういうものか』、「2 非芸術と芸術との接点:芸術と非芸術との区別のしかた」より、強調は引用者)

とりわけ歴史を研究する学者の見解に対しては、この手の「ふみはずし」を警戒する必要があると思われる。
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2005年01月04日

構造主義について(2)

いま、『マルクス主義の復原』(勁草書房)を改めて読み直している。というのもこの著作の柱の一つに、構造主義を直接とりあげた箇所(「第三章 構造主義とマルクス主義」)があるからだが、そこを主に読み直して要点を整理し直している。今回の読み直しは自分の勉強をかねていることもあり、それについて詳細にとりあげる余裕はないが、参考までに同書から少し抜き書きしておこう。
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posted by liger-one at 16:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 科学・哲学・弁証法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

構造主義について(1)

「だが、もし言葉というものが少しでも重要なものであるなら――つまり、言葉というものが事がらに適用されることによってなんらかの価値を生むものであるならだね――『分析』が『代数学』を意味しないことは、ラテン語で“ambitus”が‘ambition’を意味せず、“religio”が‘religion’を意味せず、あるいはまた“homines honesti”が‘honorable men’を意味しないくらいの程度なんだ」
(エドガー・アラン・ポー『盗まれた手紙』)
 

「構造主義」という言葉をまともに意識したのは『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)を読んでからなのだが、そこではエドガー・アラン=ポオ(エドガー・アラン・ポー)の紹介とともに、次のように書かれている。

「(前略)彼の探偵小説は、百年後の今日なおそれを凌(しの)ぐものがないといわれるほどすぐれたものです。それは論理学の論文を小説形式で書きあげたものというのがふさわしいくらいに、論理の問題を前面に押しだしていて、弁証法の傑作としてもいいすぎではありません。昔の小説家の書いた小説なんか、科学と関係あるまいと思うなら、それは大きなあやまりです。いまフランスで流行している構造主義という新しい思想の中の主張で、多くの人びとの支持を受けているものが、すでに百年以上も昔にポオの小説で正しく批判され軽蔑的に扱われているのであって、わたしはプロの科学者になりたいという若い人たちに、いつもポオを読むようにすすめています。(以下略)」(第5章「『否定の否定』とはどういうことか」、P244-245より)


この本には「構造主義」について説明がないのでこれだけでは何のことだか理解しがたいが、少なくともポオの考えや、彼を支持する三浦つとむが、構造主義に対して否定的であることは感じとられるかと思う。


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2004年12月12日

弁証法についての覚え書き

法則や公式について色々考えているうちに、覚え書き程度ではあるが、弁証法についてすこし書いてみたくなったので、書きのこしておくことにする。

弁証法という学問は、物事の持つ「変化」や「発展」といった性質を、すべて「弁証法性」つまり「運動のありかた(運動形態)」としてとらえることに最大の特徴がある。逆に言えば「世界」(森羅万象)は、未知のものも既知のものも含め、すべて「運動」(変化・発展)しているからこそ、弁証法という学問(あるいは認識)が成り立ち、また未知の問題に適用しても役に立つという根拠がある。だから弁証法を学ぶと、「世界」のいっさいがっさいを「運動のありかた」として一貫的に理解できるようになるのであり、ここに弁証法を学ぶ最大のメリット(というか必要性)がある。特に学者や研究者は、「世界」の一部(個別科学)または全部(哲学)を学問や研究の対象にしているのだから、その「世界」のもつ性質=弁証法性を無視して研究を進めたらどんな結果になるのか、多少なりとも考えるべきなのではなかろうか(もっとも、学問的に弁証法を極められた人は、歴史的に見ても極めて少数らしいのだが・・・)。
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