2006年04月17日

妥協と詐術ー教育基本法と愛国心をめぐって

「教育基本法改正 自公、愛国心の表記合意」(東京新聞 04.13)

記事によると、この問題の最大の焦点の一つだった「愛国心」の表記を、「『伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う』」(「教育基本法改正検討会」座長・大島理森元文相の案)とすることで、自民・公明の両党間で合意したという。

この記事は朝日・毎日・読売・産経でも取り上げられていたが、他紙よりもいち早く社説を掲載したのは読売である。社説は「教育基本法の改正は時代の要請」だとして、改正の根拠についてこう述べている。

戦後間もない1947年に制定された現行法は、「個人の尊厳を重んじ」などの表現が多い反面、公共心の育成には一言も触れていない。制定当初から、「社会的配慮を欠いた自分勝手な生き方を奨励する」と指摘する声があった。

青少年の心の荒廃や犯罪の低年齢化、ライブドア事件に見られる自己中心の拝金主義的な考え方の蔓延などを見れば、懸念は現実になったとも言える。


最近は「自己中心的な拝金主義的な考え方」の象徴の如くライブドア事件を持ち出す傾向があるが、ことあるごとに保守派のイデオローグから指弾される堀江貴文もさぞや鬱憤がたまっていることであろう。

それはさておき、この社説では、教育基本法の運用の「主体」である文部省(文部科学省)の責任は一切論じられていないが、論説委員は基本法が勝手に我々を教育してきたとでも言いたいのであろうか。基本法も、物言わぬことをいいことに、自分たちの無能を棚に上げて罪をすべて背負わそうとは、さぞ無責任な話だ思っていることであろう。とはいえ、この話は「右翼のタワゴト」として片付けるわけにもいかない。戦後教育になにがしかの欠陥があったことそれ自体は認めないわけにはいかないからである。

戦後教育の原点はアメリカである。敗戦当時、アメリカを中心とした連合国は、軍人勅諭・教育勅語に象徴される天皇制教育を日本から排除する一方、アメリカ流の経験主義的な教育方法と民主主義の概念をもたらした。当時の日本人は天皇主義的思想を言葉の流行とは裏腹に、この「民主主義」は「具体的な思想として理解されたのではなくて、いままでの古いものを否定することであるかのように解釈された。したがって、過去の規律・慣習・束縛を一切認めないのが民主主義ということになり、自分のやりたいことをやらせないのが封建的だとされ」た(高木宏夫『日本の新興宗教』)。これでは民主主義というより、行き過ぎた自由放任主義あるいは個性偏重主義である。生活規範(道徳)をふくむ天皇制イデオロギーをたたきこんだ戦前の教育とは真逆の方向へ向かったことになる。その意味では、今の基本法では「公共心」が育たないと言う教育基本法改正論者の指摘は、全くの的はずれというわけにはいかないのだが、彼らはライブドア事件などのある意味極端な例を持ち出してその問題を「度はずれに」(ディーツゲン)指摘する一方で、教育基本法の精神がもたらしたその成果は一切無視し、基本法全体を否定しにかかるのである(このやり方は反動主義者の十八番の一つである)。

小泉純一郎は、改正案合意が報じられた後、テレビのニュースで「愛国心は自然な感情」などとのたまっていたが、靖国参拝を欠かさないような小泉には「自然な感情」でも、郷土愛などと異なり、普通の国民にとって「愛国心」は不自然な感情である(だからこそわざわざ学校という公共の場で浸透させようと目論んでいるのではないか!)そもそも小泉の言うことが正しければ、「自然な感情」なのだから、法で定めて教育に反映させることなど不要だという話になろう。

武部勤は「政府案がまとまるのを受けて党内議論をきちんとやり、今国会に早く提出をすることが重要だ。今国会で成立を期したい」(東京新聞)と、成立に躍起になっているが、昨年の12月に「日本は天皇中心の国だ。中心がしっかりしているのと同時に、中心を皆で支えていく国柄だ」(「『日本は天皇中心の国』/自民党パーティー/武部幹事長が発言」、しんぶん赤旗、05.12.06)などとのたまう、森喜朗と同様の認識を持っている男であることは認識しておいた方がよい。また公明党の冬柴鉄三は、「与党の改正検討会の議論で、『国』には統治機構を含まないことが明確になり(国家主義に陥るとの)危惧はぬぐい去られた」(東京新聞)などと語っているが、今の日本の場合、成立さえすれば、憲法9条よろしく拡大解釈でどうにでもなる話であろう?戦前、天皇制に反対し弾圧された過去を持つ、支持団体の創価学会の人々はどのように考えているのだろうか。
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2005年12月17日

何様のつもりだ(+==)

<召集令状>生徒に配り、「非国民」批判も 福岡の中学教師(Yahoo!ニュース - 毎日新聞)

これでは「教育」ではなく「狂育」である。件の教師に「非国民」と断じられた生徒たちのほうが、教師よりもよほど理知的であることを思い知らされる。

■日本国憲法・第3章・第19条<思想及び良心の自由>

「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」

■教育基本法・第3条<教育の機会均等>

(1)「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えねばならないものであって、人種、信条、性別、社会的身分によって、教育上差別されない。((2)は省略)」(強調はliger)

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2004年12月26日

学校教育の理由(わけ)

前回の投稿の内容についてすこし書いておきたいことがある。それは「何故あれほど多くの科目を学校で勉強する必要があるのか」、ということである。以下はその目的の一つについて述べたものである。

学校教育は、(現在の教育内容がどうであれ)本来的には、社会の文化の「相続」に加え、社会の「創造」(発展)を担える人間を育てることを目的とする(河合栄治郎『学生に与う』参照)。別の角度からいえば、生徒が「現代社会生活で必要とする知的水準に達するため」、「現代社会で一人前にやっていくことができるだけの知識と知的能力を与えること」(内藤勝之『中学生の自宅学習法』・三心社)が、学校教育の最大の目的ということになろう。あるいは「学校で教育をするのは、将来のための職業的基礎を与えるという意味もないわけではないが、それより以上に、人間の能力を円満に発達させるための刺激としての効用が期待されている」ため(外山滋比古『新・学問のすすめ』講談社学術文庫)、といっても良いかもしれない。

要するに、教育次第でどのようにでも育ちうる・子どもの持つ能力の可能性を、最初から狭めてしまうような教育をするわけにはいかないのであり、そのために自然・社会・人文の三大科学(分野)の基礎を初めとして、さまざまな科目が教えられる必要があるのである。また、裏を返せばそれだけの教育が必要とされるほどに、現代社会は発展しているということでもある。義務教育といわれる小学校・中学校での教育が重要視されるのはそのためであり、またその意味で学校教育は、実生活に役に立つ・立たないといった功利主義・実用主義を重視して行われているのでは必ずしもないのである。

仮に高等数学を学んでも、個人としては実生活で役に立つ面はほとんどないかもしれない。しかし、人類が作り上げてきた文化遺産の一つとしては、学ぶ(継承される)必要があるのである。もっとも、それが見事に継承されるか否かは、生徒の意思もさることながら、その半分以上は教師の力量にかかってはいよう。

ところで、こんな教師たち(毎日新聞「相田みつを知らず生徒けなす」)に教えられるくらいなら、塾に通ったほうがよほど生徒のためになるかもしれない、などと私は考えてしまうのだが・・・(塾も塾で問題が山積みとは思うが・・・)。

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2004年12月19日

実学と嘘学(2)

それはさておき、「実学」という考え方には以前から疑問を持っていたのだが、南恁p正氏が『弁証法・認識論への道』(三一書房)で紹介されていた『学生に与う』(河合栄治郎・現代教養文庫)を読んで、その疑問と理由は氷解した。(河合栄治郎(1891-1944)は旧東京帝国大学の経済学部の教授であり、専門の経済学のほか、学生向けの著作も多数執筆されていたという)。

「実学」という考え方が成立したのは、どうやら明治以降のことらしい。この『学生に与う』「第一部 価値あるもの」の「三 教育」で、河合栄治郎は、日本の学問に対する考えかたが明治維新以前と以後とでは相当に変化したことを指摘している。とりわけ明治維新後に日本に取り入れられた洋学(科学)、そして当時の西洋の学界の思潮まで輸入する結果となった。
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実学と嘘学(1)

だいぶ前のことだが、学問のことである人と議論になったことがある。その人曰く、「実学以外の学問なぞ役には立たない」と。正確に覚えているわけではないが、要はこのような主張だったと思う。

彼の主張でいうところの「実学」とは、要は「生活に役立つ学問」あるいは「就職に役立つ学問」ということなのだろうと思う。この考え方で行くと、「実学」とは、生産に直接つながる自然科学系の学問や、社会科学ならば専門職に直結した法学系の学問あるいは経営学など企業活動に役立つと思われるものなど限られることになろう。

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2004年12月12日

学力(2)(続)

学力(2)(続)

このOECDのテスト結果で気になったのは、文部科学省のあわてぶりのほかにもうひとつあります。それは「習熟度レベル」の高い生徒と低い生徒での得点格差が、前回と今回とで広がったということです。テストの問題は生徒ごとに変えてあるということですが、高い生徒では前回のテストと今回とでは差があまりなく、低い生徒のほうで差がひろがったとのことです。順位が下がった原因は直接にはそれでしょうが、問題はなぜ広がったのか?ということです。

おそらく学力低下に大きくかかわっているのは、一つには親の教育態度だと思うのです。教育といっても子どもを塾に行かせるとかそういう話ではなく、「親は子の鑑(かがみ)」という言葉に代表されるように、普段からの生活態度を含めての子どもへの教育態度です。昨今本を読まない人が増えたといいますが、親が普段から本や新聞などを読む習慣があまりない・そういう姿を子どもに見せない場合、果たして子どもが自分から進んで本を読むようになるのか、です。もっとも親が本を読むから子どもが本を読むようになるかというのは一つの偶然性であって、必然とは言い切れません。親のせいでかえって本嫌いになることさえ考えられます。しかし可能性としてはありうると思われるのです。

子どものうちに活字に親しむ習慣が身につかなかった場合、その人は果たして成長したら本を読むようになるのか? 人によっては20代になって突如として読書に目覚めた、なんて人もいるようですが、今の日本には本などよりも魅力的な娯楽がいやというほど存在しますから、それら以上に本(活字)に魅力を感じるのは、何か強烈な体験でもないかぎり難しいかもしれません。まして読書が習慣化するなどということは、軽い小説などならともかく、一昔前の活字がぎっしり詰まった本など見向きもされないのかもしれません。(まだ続く、か考え中。)
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2004年12月08日

学力(2)

以下の文章は、菜園チスト氏のコメントに対する返信として書いたものでしたが、長文になってしまったので、コメントではなく投稿文として掲載することにします。

>菜園チスト様

こんばんは。遅くなりましたがコメントどうもありがとうございました。die_vernunft氏の「卒論執筆中という名の怠惰なひととき」ですね。昨日(というか深夜)さっと目は通させていただいたのですが、改めて読み直させていただいています。もっとも、氏のブログに投稿してしまうとかなり長くなりそうなので(^^;)、こちらで展開します。

1・今朝テレビで見たのですが、新聞でも昨日の夕刊一面で各紙とも大きくとりあげられていたようです(私は自宅の新聞に今朝目を通しました)。識者からの意見もかかれていましたが、文部科学省の過敏な反応に対して批判的なコメントも見られました。まあ当然だとは思います。数年前、TOEICの平均点が他の諸国よりも低かったことが話題になりましたが、この国の役人は、結果ばかりを取り上げて、その過程は全く無視したがるのですね(その傾向は役人だけではないのですが)また、どのような母集団やサンプル数など統計的な面も気にかかりますが、ここでは一応棚上げにしておきます。

こういう人たちには次の言葉を送りたいと思います。

「・・・たとえば、ヴィドックは推量がうまくて、根気強い男だった。しかし、考えに教養がなくて、いつも調査に熱心すぎるためにしくじっていた。彼は物をあまり近くへ持ってくるので視力を減じたのだ。一、二の点はたぶん非常にはっきり見えたかもしれん。が、そのためにどうしてもものごとを全体として見失うんだね。こういうわけで、あまり考えが深すぎるということがあるものだ。真理は必ずしも井戸の中にはない。事実、重要なほうの知識となると、それはいつも表面(うわべ)にあるものだと僕は信じる。深さは、真理を捜し求める渓谷にあるのであって、その真理が見出される山嶺(さんてん)にあるのではない。」

「過度の深さは考えを惑わし力を弱める。」

(エドガー・アラン・ポー『モルグ街の殺人事件』新潮文庫 強調は引用者)


これは弁証法的な考え方の一例でもあります。(続く)
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学力

asahi.com
「日本は数学6位、読解力14位に転落 OECD学力調査」

この記事によると、「41カ国・地域の計約27万6000人の15歳を対象に、知識や技能の実生活への応用力をみるテストが行われ」、2000年に実施された調査結果に比べると、数学は1位から6位へ、読解力は8位から14位へとダウンしたとのことである。またこの調査では「習熟度レベル」の高いグループに比べ、低いグループでの落ち込みが大きかったようだ。「文部科学省は日本の学力について初めて「世界のトップレベルとはいえない」との表現を使い、厳しい現状認識を示し」、「今回の結果について『日本の学力は上位にある』としつつも、特に落ち込みの目立った『読解力』に対応するため『読解力向上プログラム』を来夏までに策定すると表明した」という。

また「Yahoo!ニュース」(配信:共同通信)では、中山成彬文部科学相が「『要するに勉強しなくなったんじゃないですか。低下傾向にあることをはっきり認識すべきだ』と述べ、世界トップレベルからの脱落を認めた」「もっと勉強しないと駄目だということを徹底しないといけない」と記者会見で述べたという(Yahoo!ニュース「要するに勉強しなくなった 中山文科相」
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posted by liger-one at 01:34| Comment(3) | TrackBack(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年11月25日

ノート:東京新聞11/25(朝刊)

今日もまともに更新できそうにないので、とりあえず雑感のみ記します。

今日の東京新聞(朝刊)の「こちら特報部」(28-29面)に、「教師の本音座談会」と称した記事があり、現役教師による覆面座談会などの記事が記されています。

「民主主義はもう死語」
「職員会議は翼賛会議≠ノ」
「管理強化 教員にじわり」

「憲法とともに『戦後』を支えてきた教育基本法『改正』が迫っている。東京都教育委員会(都教委)はこの間、その中身を先取りしてきた。昨年の都立七生養護学校での性教育処分、今春の日の丸、君が代処分などは、その結果だ。職場では『物言えば唇寒し』の空気が漂う。状況を危ぐする三人の教師が今回、匿名で現状を語ってくれた。いま、職員室で何が起きているのか−」(記事リード部)

新聞記事を見てのべた打ちですが、記事の内容の雰囲気はなんとなくつかめるかと思います。

いまはあまり詳しく感想を書く時間がありませんが、今の東京都教育委員会の言動はいささか常軌を逸している感が強いと思われます。この記事だけではありませんが、これらの問題に関してはまた取り上げたいと思います。
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2004年11月09日

在野とアカデミズム

LOVELOGの全ブログ検索で「三浦つとむ」をサーチしたところ、次のような文章を見つけました。
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2004年11月03日

学者たるもの・・・

『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)の著者略歴にも記されているが、三浦つとむの学歴は「実業学校中退」であり、卒業したのは小学校だけである。現在三浦つとむが世間的にほとんど知られていないのは、一つにはこの学歴によるところも大きいのではないだろうか。たとえ大学教授でも、彼の名を知る人はかなり限られているのではないかと思われる。だが、学歴(学校暦)の高さと学問の能力とは決してイコールではないし、必ずしも比例しているわけでもないことを、彼は教えてくれる。それは彼の学問に対する態度にもよく現れている。
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posted by liger-one at 19:43| Comment(2) | TrackBack(0) | 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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